『麒麟』:読書感想文(谷崎潤一郎編)

『麒麟』は、谷崎の処女作『刺青』発表の翌月、1910年12月に発表された。

谷崎は中国を舞台とした作品を何作か発表しているが、孔子を題材に書かれた『麒麟』は中国古典との対話で生まれた第一作ともいえる。

なお、谷崎は生涯において二回中国旅行に出かけているものの、本作品は中国旅行に行く前に書かれた作品である。

少年時代から漢学の塾に通っていたため、実際に中国を訪れる前においても、『麒麟』のように漢籍に基づいた小説が書けたのであろう。

あらすじ

中国は春秋の時代、孔子は魯の国を発ち、衛の国を訪れた。衛の国の霊公は、南子夫人の言うがままに民を搾取しており、国は疲弊していた。孔子は霊公に迎えられ、徳により国を治める道を授ける。一度、霊公の心は孔子の方へと傾きかけるものの、結局孔子が説いた徳も南子夫人の色気に打ち勝つことができず、霊公は再び南子夫人の言いなりとなってしまう。孔子は、「吾未だ徳を好むこと、色を好むが如する者を見ざるなり」との言葉を残して衛の国を去って行くのであった。

「麒麟」とは?

本作のタイトルにもなっている「麒麟」は、中国の神話で現れる伝説上の瑞獣(古代中国で縁起が良いとされた霊獣)である。

「麒麟」と聞いた時に、日本人にとって一番馴染み深いのは、キリンホールディングス株式会社の「キリンビール」ではないだろうか。キリンホールディングス株式会社のHPには「麒麟」について以下の様に記載されている。

麒麟は、紀元前から中国に伝わる伝説上の動物で、慶事の前に現れると言われ、おめでたいしるしとも考えられています。他を慈しみ、思いやりを持った動物で“仁獣”とも表現され、“生きている虫を踏まず、草を折らない”、“百獣の長”であり、また“泰平のしるし”、とも言われています。

キリンホールディングス株式会社のHPより引用

つまり、「麒麟」は平和を好み、皇帝が良い政治を行うと現れるとされている神聖な動物である。

この「麒麟」と孔子の誕生に関する伝説について、『麒麟』の作中では以下のように描写されている。

其の男の生れた時、魯の国には麒麟が現れ、天には和楽の音が聞えて、神女が天降ったと云う。

『麒麟』谷崎潤一郎

なお、「麒麟」と孔子の関係性について、古代中国の歴史書『春秋』において、『獲麟』という出来事が記されている。

『獲麟』とは、泰平とは言えない世の中に麒麟が現れ、人々が聖獣である麒麟を知らずに気味悪がって捕らえたことに、孔子は深く諦念し筆を置いたとされる話である。

『獲麟』という話から想像されるように、「麒麟」と孔子の関係については、最初からその悲劇的な基調が定められている。つまり、『麒麟』というタイトルにおいて既に、孔子の徳が南子夫人の色に敗北することを予感させているのである。

なお、谷崎は『麒麟』というタイトルについて、以下の様に述べている。

私の青年時代の作に『麒麟』と云ふ小篇がありますが、あれは実は、内容よりも『麒麟』と云ふ標題の文字の方が最初に頭にありました。さうしてその文字から空想が生じ、あゝ云ふ物語が発展したのでありました。

『文章読本』谷崎潤一郎

儒教と道教

『麒麟』は以下の漢文から始まる。

鳳兮。鳳兮。何徳之衰。往者不可諌。来者猶可追。已而。已而。今之從政者殆而。

<書き下し文>鳳や鳳や、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諌むべからず、来る者は猶ほ追ふべし。已(や)みなん已(や)みなん。今の政に從ふ者は殆(あやふ)し。

<現代語訳>おおとりよ、おおとりよ。なんと徳が衰えたことよ。過ぎ去ったことはもう戻らないが、これからの事はまだ何とかなる。やめてしまえ、やめてしまえ、こんな世の中で、政治に関わる者は命が危ないぞ。

『接輿而歌』

これは、孔子が楚に滞在している間に、楚の道家である接輿という者が歌ったとされるものである。この歌で、道家である接輿は、政治に積極的に関わろうとする儒家の孔子を嘲笑している。

儒教も道教も、仏教と合わせて中国三大宗教に数えられるものの、両者の考え方には以下のような違いがある。

接輿を含めた道家は、君主は自ら規範や法度を持って天下を治めることなどできないから、政治に関わるよりはむしろ避けた方が賢明であると考えている。一方、儒教は人間社会に関心を持ち、高い徳を持って国を治めるべしと考えている点に違いがある。

『麒麟』において、孔子が南子夫人に敗北する構成からは、谷崎の儒教への否定的な態度、及び道教的な考え方への共感が窺われる。

衛に向かう途中、歌を唄っては穂を拾う老人林類のエピソードが出てくる。この林類も老子の門弟であり道家の一人である。

孔子の弟子である子貢は「どうして、死を楽しむ事ができますか」と林類に尋ねると、林類は「死と生とは、一度往って一度反るのじゃ。」と答えている。その言葉を聞いた孔子は自分とは立場が異なることを以下の様に述べている。

「なかなか話せる老人であるが、然し其れはまだ道を得て、至り盡さぬ者と見える。」

『麒麟』谷崎潤一郎

このように谷崎は道家と儒家を意図的に対立させるよう物語を設定している。

※道教についての記事はこちらから

感想

『麒麟』では、南子夫人に孔子の徳が敗北する物語が書かれており、谷崎は接輿や林類といった道家とこれを比較することで、儒家思想に対する否定的な態度を際立たせている。

また、『少年』で取り上げたように、父親を手本とする権威的なパトリズム(父性制)と、母親を手本とする母性愛に満ちたマトリズム(母性制)という概念の対立という観点で見れば、儒教というパトリズムが、南子夫人というマトリズムに敗北したとも読み取れる。

戦時中においても、政治的な面からは距離を置き、黙々と執筆活動を続けていた谷崎の哲学が、『麒麟』からも確かに読み取れるのである。


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