映画好きの友達
私の友達に、学生の頃は1日1本のペースで映画を見ていた映画好きの友達がいて、その友達から、「ウッディ・アレン」や「クエンティン・タランティーノ」といった同じ監督の作品を連続でみるだとか、決まったフレーズ、例えば「アメリカン」で絞って、『アメリカン・ビューティー』や『アメリカン・サイコ』を立て続けにみるだとか、面白い映画の選び方を教えてもらったことがある。何でも1日1本のペースで映画をみていくと、どの一本を選ぶか毎日考えるのが億劫になるため、ある基準を決めて選んでいった方が効率よくみることができるとの話だ。
ただ、おもしろいことに、その友達は『タイタニック』や『ショーシャンクの空に』、『ゴッドファーザー』など超がつく有名どころの映画は一本も見ていないらしい。彼曰く、「世間では面白いと言われているのに、その時の自分の気持ちには合わなくて面白くないと思うのが怖いから」だそうだ。
確かに、子供が生まれたタイミングで自分の娘が自分の代わりに殺されてしまう憂鬱な映画は見たくないだろう。良い映画か悪い映画かは、見るときの自分の気分に多分に左右されるため、世の中で絶賛されている映画がとんでもない駄作に思えたり、またどうしようもなくくだらない映画が無性に心に突き刺さる時もあったりする。
映画『ミッドナイト・イン・パリ』
最近、妻と2人でみた映画に『ミッドナイト・イン・パリ』がある。意識してかしらずか妻のブログにも「古典回帰」という言葉が出てきているが、この映画のキーワードもまさに「古典回帰」であろう。
私は以前も一度この映画をみたことがあって、その時は、昔の人も昔の方がよかったと思っており、結局「隣の花は赤い」に過ぎない、くらいの意見しか持ち合わせていなかった。
ただ、今回もう一度みてみると、主人公にとっての「隣の花は赤い」は、現代に対しての1920年代だけでなく、現在住んでいるハリウッドに対してのパリ、婚約者のイネズに対してのアドリアナ、といくつかの「隣の花」が出てきているように思えた。そして最後には、いつの時代も昔の時代に憧れるものという結論に至り、1890年代には残らなかった一方で、婚約者イネズとは別れ、パリにも残るという決断をしている。
1890年代から現代に戻るハードル(?)と、パリからハリウッドに戻るハードルを考えれば、パリに残ってもいざとなったらハリウッドに戻れるだろうと考えていたのか、もしくはそこまで明確な考えはなく、気持ちとしてははっきりしないままパリにだらだら残っていた気もする。
過去にアドリアナを残し、元婚約者イネズはハリウッドに戻り、パリで一人だらだらと過ごしていると、偶然第3の女ガブリエルと遭遇。そこに雨が降り「パリは雨が一番素敵」というフレーズで意気投合。主人公の気分と雨が合致してそれを主人公が共感してほしかったフレーズで包み込む、私も雨が好きなのでなんとも素敵なエンディングだ。
「ミッドナイト・イン・トーキョー」
妻と一緒に暮らし始めて1年以上になるが、一緒に暮らしていると、食べるもの、見る映画など、多くのことを共有することになる。特にコロナで二人とも在宅勤務をしている現状では、ほぼ24時間、同じ時間を共有していることになる。
このブログを書きながら、妻に「古典回帰」の言葉のチョイスについて理由を尋ねたところ、やはり『ミッドナイト・イン・パリ』を見たからだそうだ。見た映画の感想は違うかもしれないが、一緒に映画をみたということが、どこかでつながっていたことは少し嬉しくも思う。交換ブログはそんな些細なことが確認できるあたりにも醍醐味があるかもしれない。
今回のブログのタイトルは「ミッドナイト・イン・トーキョー」にしようと思う。自分が文章を書くときには、元々の仕事柄か、まず初めにデータや材料を集めてきて、文章を書いていって、最後にタイトルをつけることが多い。今回もタイトルを考えずに文章を書いていたのだが、半分くらい書いたところでタイトルが降ってきた。理由はわからない。
Q&A
Y to R :どんな雨のシーンが好きですか?
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